小説『チャンピオン』

小説『チャンピオン』

　ワタナベ・ヒロキはボクサーだった。ああ、犬の。ボクサー犬ではなくて。ああ、キリスト教の。牧師ではなくて。ああ、お灸をすえる時に燃やすやつや。もぐさでもなくて。小説でもこのパターンかい。とにかくワタナベ・ヒロキはボクサーだった。ボクシングする人ですね。ボクシングといえば、辰吉。やりましたねえ。やめる、やめんでゴタゴタしていた頃は、はっきり言って「ええかげんにせえ」と思ってましたが、今回の復活は感動的でした。リレハンメル・オリンピックの「原田の失敗ジャンプ」くらい。あの脳天気な原田が１分間ぐらい落ち込んでたもんな。「どうしたんですか、原田さん。銀メダルですよ。」と声をかけられたらしいですね、他の選手に。ええ話や。私はそれを聞いて、ちょっと泣きました。さて、ボクサー。別に辰吉の復活に感動して書いたわけではなく、高校時代に書いた小説です。ワタナベ・ヒロキ。これも高校時代の同級生なんですが、名前がちょっとカッコいいので主人公の名前に抜擢しました。本人は名前ほどカッコよくなくて、「少年ケニア」と呼ばれてましたが。同じく同級生に珍道（ちんどう）という名字の奴もいましたが、これに比べるとボクサー向きの名前と言えるのではないでしょうか。そのワタナベ・ヒロキ。彼は一生懸命練習して、世界チャンピオンになりました。えっ、早くもか。普通、ボクシング小説と言えばどん底からはい上がり、苦労に苦労を重ねてようやくチャンピオンになったりするんじゃないのか？という気がしないでもないのだが、この小説はボクサーの栄光と挫折のうち、挫折のほうにスポットをあてたものなのです。よって栄光を勝ち取るまでの過程はどうでもいい。という作者の進行上の都合により、ワタナベ・ヒロキは世界チャンピオンになりました。どうせ高校生のガキが書いた小説や。まともなストーリー展開を期待するほうがどうかしている。しかし彼の栄光は長くは続かなかった。ホセ・ルイス・イルズン。彼がワタナベの初防衛戦の対戦相手だった。ホセは実は海星高校の英語教師だったのだが、スペイン人だったため英語も日本語もわかりにくいという、英語教師としては致命的な欠陥を持ち合わせていた。ある日、「安全運転」のことを「運全安転」と言ってしまったことを恥じて、教員を退職。その後、なんとなく名前がボクサーっぽいという理由でボクサーに転向したところ無茶苦茶に強く、連戦連勝でついには世界挑戦というところまで上りつめていた。通称「コンパクト・イルズン」。なんか顔がコンパクトだったんだよね。

　「かん！」

　ゴングが鳴った。いきなりホセの強烈な左ストレートがワタナベの顔面に炸裂した。ワタナベはたまらずダウンした。

　「ワン」

　「ツー」

　「スリー」

　「フォー」

　「ファイブ」

　「シックス」

　「セブン」

　「エイト」

　「ナイン」

　ワタナベは辛くもナインカウントで立ち上がった。

　「ファイト」

　立ち上がったワタナベの顎をホセの強烈なアッパーが襲った。ワタナベはたまらずダウンした。

　「ワン」

　「ツー」

　「スリー」

　「フォー」

　「ファイブ」

　「シックス」

　「セブン」

　「エイト」

　「ナイン」

　ワタナベは辛くもナインカウントで立ち上がった。

　「ファイト」

　そう。みんなもう気が付いたと思うが、これは小説で行数を稼ぎたい時に使う古典的な手法、「ボクサーを登場させてカウントを数える」を忠実に実践した実験的な小説なのである。しかしこの手法も使えるのはせいぜい２回までです。なぜなら、

　立ち上がったワタナベのボディをホセの強烈な右フックが襲った。ワタナベはたまらずダウンした。

　という時点でテクニカル・ノックアウト負けだからですね。ワタナベの完敗であった。完敗、いま君は人生のー、大きな大きな舞台に立ちー、と思わず歌ってしまうほどの完敗であった。惨めな負けを喫したワタナベに、たくさんの報道人が群がった。

　「ワタナベさん、今の気持ちを一言。」

　「…」

　「ワタナベさん、一言。」

　「…」

　「調整の失敗ですか？」

　「…」

　「敗因を一言。」

　「…」

　「相手のホセについての印象は？」

　「…」

　「ワタナベさーん！」

　「…」

　ちなみにこれは小説で行数を稼ぎたい時に使う古典的な手法第２弾、「無口な人を

　登場させる」です。

　その日からワタナベの堕落した日々が始まった。

　「堕落堕落堕落だらくだらくだらくだらくだ…」

　とつぶやいているうちに、いつのまにかラクダになっているのに気付き、思わず「うーん、ヘルシー！」と叫んでしまうほど彼は落ちぶれていた。ただでさえ頭の殴られすぎで頭がガッツ○松化しているのに、追い打ちをかけるようなセイウチの食べ過ぎで胃がもたれ、彼はもはや再起不能とまで言われた。食べるなよ、セイウチなんか。

　そんな彼を救ったのは９錠のわかもとだった。食べ過ぎ、胃のもたれのあまり、ある日食後に強力わかもとを飲んだワタナベは強力になった。彼のもって生まれた野性の血が騒いだ。

　「あ、そーれ、すちゃらかちゃーんのよーいよい。」

　彼のもって生まれた野性の血が酒を飲んでどんちゃん騒ぎをした。こうして彼は生まれ変わり、奇跡ともいえる再起をはたした。もう一度、もう一度、生まれ変わってーっ、と、酔ってカラオケを歌ったりした。

　「もう一度、世界の頂点にたちたい！」

　そんな熱い思いで、思わずエベレストに登頂したりした。そういう数々のどうでもいい事をしているうちに、長い年月がたった。しかし彼は決してボクシングのことを忘れていたわけではなかった。

　「ボクシングぅ？そういえば、確かそういう物もあったなあ。」

　という程度には覚えていた。

　「オホーツク海で鮭なんかをとるんだよね。」

　しかも北洋サケ・マス漁業と勘違いしていた。大丈夫だろうか、この人。

　そんな彼のもとに一人の男が現れた。

　「ワタナベよ、もう一度ボクシングをやってみないか？」

　そう言って男は、ワタナベにボクシングのグローブを手渡した。この熱っぽい目をした男こそ、何を隠そうとあるスポーツ用品店からきた、ただの押し売りだった。

　「２万９８００円になります！」

　税込みで３万１２９０円だった。

　「俺はやるぜ！もう一度、世界の頂点にたってやるぜ！」

　ワタナベの眼に、かつて世界チャンピオンだった頃の、あの貪欲なまでの激しい炎がめらめらと燃え始めた。

　　　　　※

　スタジアムは異様な熱気につつまれていた。世界ジュニアガッツ級タイトルマッチ。チャンピオン、アンドレス・ドメニオ　ＶＳ　挑戦者、ワタナベ・ヒロキ。

　あのワタナベが帰ってきた。若くして世界のトップを極め、そして散った伝説のボクサー、ワタナベ・ヒロキが帰ってきた。ホセ・ルイス・イルズンとの壮絶な戦いに破れ、ほとんど「たこ八郎」になったとさえ言われたワタナベが奇跡のカムバックを遂げ、再びリングに戻ってきたのだ。年齢からして、これが彼に与えられた最後のチャンスであった。もう一度世界の頂点にたちたい。その思いだけで今まで血の滲むような苦しいトレーニングに耐えてきたのだ。大根おろしを作ろうとして、思わずおろし金で指までおろしてしまった事もある。あの時は本当に指から血が滲んだなあ。ワタナベはリングの上でそんな感傷に浸っていた。思えばホセに敗れてから、いったいどれ程の歳月が流れたことだろう。観客は君が代を歌うワタナベの頬に、一粒の涙が光るのを見た。

　「かん！」

　ゴングが鳴った。チャンピオンのドメニオが勢いよく立ち上がる。ワタナベはロープにすがるように立ち上がると、よたよたと３歩ほど歩き、そのままマットに沈んだ。一瞬静まりかえった観客席より、やがて悲鳴のような声があがった。いったいワタナベの身に何が起こったのか！？

　「ワン」

　「ツー」

　「スリー」

　レフリーのカウントがスタジアムに静かに響く。どうしたんだ、ワタナベ！立て、立つんだワタナベ！

　ワタナベはマットの上に横たわり、薄れてゆく意識の中で今までの人生を走馬灯のように見ていた。子供の頃、ケニアケニアと馬鹿にされ、泣きながら夕暮れの員弁川を走ったこと。町内のヤリ投げ大会で優勝し、はじめて勝利の喜びに酔ったこと。ボクシングをはじめてからの苦しいトレーニングの日々。そしてついに世界の頂点にたった日のこと。つかの間の輝き、人生の絶頂、そしてホセに敗れてからのどん底の日々。わかもとを飲んで強力になったこと。エベレストに登ったこと。スポーツ用品店の押し売りとの運命的な出会い。そして再びチャンピオンを夢見てトレーニングに励んだ長い長い年月。そして今の自分。ゴングが鳴っても立つことさえできない惨めなボクサー。

　ボクシング一筋８０年！！神経痛とリウマチと痛風と糖尿病と脳卒中の持病を抱え、寝たきり老人である俺にはもうボクシングは無理だというのか！

　「エイト」

　「ナイン」

　「テン」

　レフリーがテン・カウントを終えた時、人生のすべてをボクシングに賭けた一人の

　男が冥府へと旅立った。享年９６歳、老衰だった。

　　　　　　　　（終わり）

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