1超スペクタクル長編ラブラブじゃず小説『いそしぎ』

1超スペクタクル長編ラブラブじゃず小説『いそしぎ』

「えくすきゅーず・みー？」

その男に声をかけられた時、ワカコは海を見ているところだった。名も知らぬ水鳥の群れを見るともなく眺めていたワカコは、その声に後ろを振り向いた。背の高い黒人の青年。獲物を見つけた時の猫のような眼をしているわ。ワカコはふとそう思った。でも、その口元にはあどけない少年の面影が色濃く残されていることに、ワカコは親しみを覚えた。

「大森海岸ノすてーしょんハ、ドッチデスカ？」

「あ、それなら・・・」

ワカコはいつも持ち歩いているスケッチブックの白紙のページを開け、駅までの地図を丁寧に書きはじめた。覗き込むように男が顔を近づけてきた時、ワカコは男の強い体臭を感じた。しかしそれは決して不愉快なものではなく、むしろ何か懐かしさを感じさせるものであった。こういうのを「ファンキー」って言うのかしら？ワカコは昔よく聴いたジャズのレコードのことを思い出していた。あれは何ていう名前だったかしら？確か、ハイヒールを履いた脚のジャケットの・・・。

「ＯＫ？」

青年の声にワカコは我にかえった。

「あ、ごめんなさい！」

その時、初めて青年は白い歯をみせて笑った。笑うともっと幼くなるわ。もしかして私よりうんと年下なのかも知れない・・・。ワカコがスケッチブックをページ破って渡すと、青年はそれを丁寧に折りたたんだ。

「ココデ何ヲ、シテタンデスカ？」

「え？」

この人、私に興味を持ったのかしら？もしかしたら駅までの道などどうでもよくて、それを口実に声をかけてきたのかも知れない。でも、どうして私なんかに・・・？ふと不安な思いに駆られたワカコだったが、それよりもこの青年ともっと話をしてみたい。その気持ちをどうしても押さえることが出来なかった。

「海をね、眺めていたの。」

「海ヲ？」

「そう。」

ワカコは一人で防波堤の先まで歩いていくと、そこでくるりと振り向いた。

「ねえ、こんな歌、知ってる？」

ワカコはいたずらっぽい笑みを浮かべると、昔よく聴いたスタンダードを歌い始めた。

　　I cover the water-front , I'll watching the sea ･･･

「レディ・デイ？」

青年の目がきらりと光った。

「そう。ビリー・ホリデイの歌でよく聴いたわ。日本語では“波止場にたたずみ” って言うの。」

「ジャズ、好キナンデスカ？」

「昔ね。」

ワカコは水辺を舞う水鳥を目で追いながら、どうして初めて会った見知らぬ黒人の男に、こんな話をしようとしているのかしら？と不思議に思っていた。

「昔、付き合っていた人がね、ジャズが好きだったの。それでね・・・。」

「僕ハ、ヨコハマデ、とらんぺっとヲ、吹イテイルンダ。」

「ホント？」

「ウン。コンヤ、らいぶガ、アルンダ。ヨカッタラ、キキニコナイカイ？」

「何を吹くの？」

「いそしぎ。」

「え？」

ワカコは最初、彼が言った日本語のタイトルが理解できなかった。

「Shadow of your smile」

「あ、“いそしぎ”ね。」

「僕ハ、３ネンマエ、日本ニキタンダ。１人ノトキ、イツモココデ、海ヲ見テイタンダ。」

「今の私と同じね。」

「ウン。ソシテココデ、アル女ノ人ト出会ッタ。」

「どんな人だったの？」

「ウシロ姿ガ、キミニトテモヨク、ニテイタ。」

「それで、私に声をかけたのね？」

「モシカシテ、ト思ッテ・・・」

「その人とは別れたの？」

「僕ハ、彼女ノ部屋ニ転ガリコンデイタ。デモ彼女ハ他ノ男ト、結婚シタ。」

「捨てられたってわけ？」

「・・・。」

「幸せに暮らしているといいわね。」

ワカコは何故、自分がそんなことを言ってしまったのか、不思議でならなかった。その時、水面に魚の群れでも見つけたのか、空を舞っていた水鳥たちが一斉に海に降り立つのが見えた。

「アノ鳥ノ名前ガ、“いそしぎ”ダッテコト、彼女ニ教エテモラッタンダ。」

「今夜、あなたの演奏を聴きにいくわ！」

ワカコは自分が“いそしぎ”にさらわれる、小さな魚なのかも知れないということを感じていた。でも、それでもいいと思った。

　　　　　※

　桜木町の駅を降り狭い路地を曲がった角に、その「ばあどらんど」という店はあった。

　　本日のライブ：　リー・サバガン・クインテット

その看板を見て、初めてワカコは男の名前すら聞いていなかった自分に気がついた。男も彼女の名前を聞こうとはしなかったし、それが不自然だとも思わなかった。サバガン・・・。ワカコはその名前を小さくつぶやくと、重い樫のドアを押した。演奏はもう始まっていた。「ＢＯＤＹ　＆　ＳＯＵＬ」。サバガンの吹くそのバラードに耳を傾けながらワカコは、今夜、私は彼と寝ることになるのだろうか？そんなことをぼんやりと考えていた。

　ファースト・ステージが終わり、店の片すみでグラスを傾けているサバガンのほうへ、ワカコは歩いていった。

「サバガン・・・」

彼はひどく酔っていて、それがいったい誰なのか解らない様子であった。ワカコは例えようもない孤独に堪えなければならなかった。

「ほら、今日、海で・・・」

「オウ、レディ・デイ！」

サバガンは大袈裟な身振りをして片手でカワコの手を握ると、反対の腕で隣に座っている化粧の濃い女の肩を抱くのであった。

「紹介シヨウ。コチラガ、コノ店デハライテイル、ミス・ぶらっくきゃっと。デ、コチラガ・・・」

「・・・。」

ワカコはサバガンの手をふりほどくと、そのまま店を飛び出した。いつの間にか冷たい雨が降りはじめていた。涙がとまらなかった。その時、ふいに強い力で肩をつかまれた。

「ドウシタンダ！」

「だって・・・」

「僕ハマダ“いそしぎ”ヲ吹イテナイ。ズット、君ガクルノヲ待ッテイタンダ。」

「サバガン！」

「マダ、君ノ名前ヲ聞イテナカッタ。」

「ワカコって呼んで。」

「ワカーコか。イイ名前ダ。サ、ワカーコ、店ニモドロウ。」

ワカコは捨てらてた子猫のように心細げにサバガンのうしろについて歩いていくのであった。

　　　　　※

「今日ノ“いそしぎ”ハ、ドウダッタ？」

ベッドの横で、ふと思い出したようにサバガンが尋ねた。

「とってもよかったわ。」

ワカコは素直にそう答えた。今まで聴いた誰のどんな演奏より、今日の“いそしぎ ”は素晴らしかった。それはワカコの嘘偽りのない気持ちだった。

「正直ニ言ッテクレ。ワカーコニハ悪イガ、僕ハモウ、昔ミタイニ“いそしぎ”ヲ吹ケナクナッテシマッタンダ。」

「どういうこと？」

「僕ニハ女ガイタ。彼女ガ僕ニ“いそしぎ”トイウ名前ヲ教エテクレタ。ソノ彼女ト別レテカラ・・・」

「その話はしないで！あなたを捨てた女なのよ！」

「僕ハ、死ンダラ“いそしぎ”ニ生マレ変ワルンダ。ソノ時ハジメテ、本当ノ“いそしぎ”ヲ吹クコトガデキルンダ。」

「何をいってるの！今日のサバガンは素敵だったわ。誰よりも輝いていたわ！」

「アリガトウ、ワカーコ！」

二人は唇を合わせたが、その冷たさだけが心にしみる雨模様の夜だった。

　　　　　※

　サバガンの生活は荒れていた。深酒に溺れて、悪い薬に手を出していることもワカコは気づいていた。ステージに上がっても、まともに演奏することすら出来なくなっていた。そして彼はいつの間にか“いそしぎ”を吹かなくなった。サバガンがまだ昔の女のことを愛しているということはわかっていた。自分はその女の身代わりにすぎないということをワカコも重々承知していた。それでも、彼の荒んだ心を癒すことが出来るのは自分しかいないと思っていた。次第にステージの声もかからなくなってしまった彼を養うために、ワカコは夜の仕事を始めた。それでも彼女が稼いできたわずかばかりの金は一瞬にしてサバガンの酒とクスリの代金に消えていくのだった。それでもワカコはサバガンと別れることが出来なかった。いつかきっと、ステージにあがって私だけのために“いそしぎ”を吹いてくれる。そんな姿を夢に見ながら・・・。

　　　　　※

　冬が近付いていた。サバガンとはじめて会った日から、２年目の季節が巡っていた。サバガンはワカコのアパートに帰ってこないことが多くなった。昨日もトランペットのケースを抱えたまま家を飛び出していき、そのまま戻ってはこなかった。どこか、よその女のところに転がりこんでいるのかも知れない。でも、そんなことはもうどうでもいい。たとえ１週間に１度だけでも私のもとに帰ってきてくれれば、ただそれだけで・・・。でも、このままではあの人はどんどん堕ちていってしまう。ワカコはそれが心配だった。私が急にいなくなったら、あの人も少しは目を覚ましてくれるかしら？ワカコはどこかひとり、遠いところへ行ってしまおうと思った。

鞄の中に小さなナイフを忍ばせていったのは、彼女が死を考えていたからかも知れない。ふと気がつくとワカコは、いつかの波止場へ来ていた。この海ももう、見納めかも知れない・・・。そんな思いが彼女の脚をここに向かわせたのだろうか。ワカコはしばらく放心したように海を眺めていた。

　その時、どこからかトランペットの音が聞こえてきた。はっとしてそちらを見ると、そこにはサバガンの姿があった。そして彼が吹いているのはあの、忘れることの出来ない“いそしぎ”のメロディであった。思わず彼の元へ走っていこうとして、ワカコはその場に凍りついてしまった。サバガンの横に１人の女がいる！自分によく似た後ろ姿の女が！夢にまで見た“いそしぎ”。でも、それは私の為に吹かれたものではなかった・・・。

　血相を変えたワカコの姿に、その女は逃げるように去っていった。

「サバガン！」

「ワカーコ！」

「今の女は・・・」

「アア、例ノ女ダ。」

気がつくと、ワカコの手にはいつの間にかナイフが握りしめられていた。

「サバガン！愛してるぅ！」

サバガンは悲鳴もあげずその場に崩れ落ちた。ワカコの手に生暖かい血潮がふりかかった。

「偶然ココデ、彼女ニ会ッタ。幸セダト聞イテ、僕ハ嬉シカッタ・・・」

「それで“いそしぎ”を・・・？」

「ワカーコ！ソノないふヲ貸セ！」

「殺して！私を殺して！」